2011年5月8日日曜日

誰が象を見たか

群盲象を評す、という言葉がある。古代インドから伝わる寓話だそうだ。目の見えない人達が象に触り、その感触から象というものの印象についてそれぞれが意見を言う。象の腹に触った者はそれは壁のようなものであると主張し、足に触った者は柱のようだと言う。耳に触ったものはそれはウチワのようなものであるという。

みんな言っていることは正しいのだが、その形全体を表さなければやはり象を表すことにはならないだろう。「目明き」が象の形を言葉にしたところで、それでも動物学者に言わせると形を表しただけでは象を評したことにはならない、と言うかも知れない。さらに獣医は象の体の組織まで知らなければ象を知ったことにはならない、と言うだろう。

これを発展させてみれば、何のことはない、我々が知り得ることは宇宙全体のほんの僅かの部分に過ぎないことがわかる。で、あれば「知っている」と言う人に我々は注意をしなければならない。日常の生活の中で、私は☓☓について知っている、と言う人がいたら用心である。それが「斉藤寝具店がどこにあるかを知っている」程度ならいいのだが・・・。

「シッタカ」が世の中には多いのである。故意であるかどうか、悪気があるのかどうかはともかく、人はすぐシッタカになる。なぜか?私は、人の中の動物性がそれをさせるからだと思う。「知っている」ことによって相手の優位にたてるからである。

話が逸れた。私たちは何も知らない、ということを知るべきだ、というのが今回の論旨である。

テレビで、この度の天災と人災で命を奪われた人々のことを私も本当に気の毒に思う。でも、それは自分がいま生きているからそう思うので、いつかは死ぬ。まるで自分は死なない側の人間のように思って亡くなった人々を気の毒がるのはおかしい。

肉体が滅んで魂だけの生活があるとすれば、少なくとも肉体を養ったり、管理する苦労からは開放されるわけで、それはとてつもなく楽チン生活ではないかと想像する。

人が死んだからと言って悲しむこともなく、生きているからと言って特別喜ぶこともない。ま、多少は仕方ないか・・・。あまり唐突なことを言っても変人扱いされるだけだから。

そうして今日も私は、人が見たという象の姿の断片をかき集めてはその全体像を想像して死を待つのである。

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